50年以上も日記を書き続けた主婦が
和歌山の城下町に存在していました!
その名は川合小梅。
一見小さい営みでありながら、私たちに残してくれたものはとても大きいです。
日記には、江戸時代の末期から明治の初期にかかる激動の時代、
悲しいことや、やるせないことの多い不安な日々を耐えながら
庶民がどのように楽しみを見い出して暮らしていたかが
詳細に記録されています。
日記をひも解くと、江戸末期の和歌山城下では町人文化が花開き、
女性が活躍する場面も少なからずあったことがわかり、
当時のありのままの庶民の暮らしぶりが知れる、
大変貴重な資料なのです。
小梅の日記が初めて世に出たこの記事の冒頭には
「幕末時代の地方政治、経済、社会の裏面史として絶大な価値をもつ郷土史新資料が偶然発見され、初めて世に紹介されることとなった」
とあります。
日記は小梅の死後、子孫に形見として分けられたため、部分ごとに離れた場所から見つかっており、
この大阪朝日新聞の記事には、埼玉県浦和市の所有者から和歌山市の紀州文化研究所の関係者に日記が寄贈されたことが発端と、記されています。
次に、小梅の日記にスポットライトが当たったのは、
それから41年後の1980年。
小梅のひ孫である志賀裕春さんが
自宅の土蔵から日記の一部を発見し、72歳から猛勉強をして
漢文で書かれた日記を現代文に直しました。
さらに、小梅の日記を解読することに賭けていた志賀裕春さんの姿を
「祖父は面白いところがあると読んでくれた」
と記憶している
裕春さんの孫の志賀俊之さんの新聞記事も探しました。
こうした資料は、小梅の写真が残されていない中で、
「どのようなお顔をされていたのかしら」
という疑問にわずかながらも手がかりを与えてくれます。
ひ孫と孫のお顔に特徴的なスーッと通った鼻筋は、
おそらく小梅のお顔にも共通しているのではないでしょうか。
また、新聞記事に登場したお二人がともに経済界でご活躍されていることは
日記の中の給料や買い物に関する詳細な記録や、
天気については自分の創意で記号を作って記録しているところから想像される
小梅の理知的な性分が、一族に脈々と受け継がれていることを感じずにはいられません。
画像の一番左の小梅の肖像画は、和歌山市の南に位置する海南市出身の画家、
雑賀紀光(1911〜1993年)が描いたもの。
画家の作品には必ず、自身に似通ったところが表れるものという定説から、
紀光が小梅の作品全てを見た上で描いた肖像画です。
2020年に取得した地域限定旅行業取扱管理者の資格を生かして私が企画しているツアーでは、以上のような資料を元にしながら、
小梅が見ていた景色を今も留めている場所にご案内し、
皆様の心の中に小梅が新たに誕生し、その存在を身近に感じていただけるよう努めております。
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