和歌山城の唯一無二の魅力と風流を愛したお殿様・第10代藩主治宝(はるとみ)公

「和歌山は空が美しく、風は優しい・・・」と、和歌山城内を散歩していると感じます。何度通っても、空に映える天守閣の優雅な姿に新しい感動があり、このお城に君臨していたお殿様や家臣、城下町に暮らしていた人々に想いを馳せることができます。

 天守閣内の資料館に数多く並ぶ徳川家ゆかりの品々のうち、第10代藩主治宝(はるとみ)公が描いた牡丹の花の絵などを見ていると、世が世ならお側に近寄ることはできなかったであろうお殿様でさえ、身近に感じることができます。

 約400年前の1585年に豊臣秀吉がここに城を築くことを決めた後、15年後の1600年に浅野幸長(よしなが)が城主になり、その19年後に徳川頼宣(よりのぶ)が入城し250年続いた江戸時代、そして明治、大正、昭和、平成、令和と、怒涛のごとく流れていく時の大きな川の中で、和歌山城はいつも変わらず美しい姿をとどめています。

 特に、技術の進歩とともに積み方が変化していった石垣の、その姿の変遷が築城当時から変わらぬ姿で見ることができるのが、唯一無二の和歌山城の見所。

この写真の手前は、大きな石の端を少し削った打ち込みはぎという技法の石垣で浅野期によくみられ、天守閣のそばに進むと、豊臣・桑山期に施工されていた、小ぶりな石をそのまま積み上げた野面積みという技法が見られます。

こちらは4月末の頃の天守閣です。3月の桜の時期が終わると黄色い山吹の花がお目見えし、さらに暖かくなってくるとツツジが美しく咲き誇り、さらに牡丹の蕾が膨らんでゆきます。

この牡丹園があるのはお殿様(藩主)の私邸で「大奥」と呼ばれた屋敷跡地のそばです。

「大奥」とは、藩主の私邸であり、奥女中たちが暮らすエリアのことで、男性で立ち入ることができるのはお殿様のみ。元々「御内証(ごないしょう)」と呼ばれていましたが、江戸城での呼称であった「大奥」にならって変えさせたのは第10代藩主治宝(はるとみ)公でした。治宝公は、歴代の藩主の中でも茶の湯や絵画など、文化芸術をこよなく愛した”数寄の殿様”と言われたお殿様です。

 そして、治宝公の美意識の高さが最も良く発揮されているともいえるのが天守閣の「石落とし」の部分。

「石落とし」とはどのお城にもある、この写真のように壁から少し飛び出している部分のことです。戦(いくさ)が起こった際には、普段は閉じている蓋を開け、上から石や熱湯、汚物などを落とし、敵勢を退けることができるのです。

 この「石落とし」が曲線を描いているのは、他の城には見られない和歌山城独自の特徴で、黒板張りだった天守閣を白壁に改築した1798年当時の藩主、治宝公の風雅な趣向が反映されています。

 治宝公のその洒落た感覚がダイナミックに表現された大名庭園が、和歌山城から自動車で南へ15分ほど、歩いて1時間ほどの西浜というエリアにあり、4月末に行ってきました。それは、現在「国指定名勝元紀州徳川家庭園 養翠園」という名称で、表千家の茶の湯を極めた治宝公が39歳だった1818年から8年をかけて創設しました。

 園内のこの池は直線的な形状で中国の西湖を模したと伝えられており、大きさは約1万平方メートル。「国指定名勝」というのは、初代藩主頼宣(よりのぶ)公が五十五万五千石を拝領して”和歌山づくり”を始めたという大きな藩であり、徳川御三家の一つであると、誇り高かった旧藩主の遺跡として、当時の姿のまま良く保存された庭園と建物であるという証です。

借景として取り入れられている天神山と章魚頭姿(たこずし)山も新録の時期なのでより美しく、池の周辺には黒松の並木が巡らされて池の形を引き立てています。さらに凝ったセンスが感じられるのが、池の中央に小さな島が作られているところ。

 島へ渡りお社に参ることもできるので、園内の散策も起伏に富んだ楽しいものになります。この池は、大浦湾の海水を引き込んでいる、いわゆる汐入式回遊庭園ですが、庭園内を歩いていると、治宝公が海上から船に乗って庭園へ来られた際に上陸したという小さな波止場がありました。

 これほど海に接して造られた庭園でありながら、大池の近くでは特に海の景色を見せることはなく、わずかに松林の間から覗く程度で、海辺にありながらまるで山中にいるように思われるような景観づくりをしているところに、治宝公の並々ならぬセンスが感じられます。

 庭園の入り口ではカキツバタが満開でした。

 

 芸術だけでなく学問好きで知られた治宝公は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、その教育の内容のひとつに儒学という中国古代の儒家思想を基本にした学問がありました。儒学とは、権力、武力ではなく君子の道徳的権威で社会を治めていく「徳治主義」を唱えます。

 治宝公に召抱えられた(雇用された)学者の中に美濃の国(岐阜県)出身の川合春川という儒学者がいました。江戸末期から明治期にかけて和歌山城下に暮らした画家、川合小梅は、春川の孫にあたります。小梅は幼少の頃に亡くなった父親の代わりに、祖父である春川から薫陶を受けて育ち、16歳で嫁いでから50〜70年にわたり日記を書き続けました。その日記は、当時の生活様式を今に伝える貴重な資料となり、現在では天守閣内で小梅の功績が紹介されています。

 治宝公が和歌山で取り組んだ教育と文化の政策が現代にも息づいていることを、美しい青空の下で感じとりながら暮らせることは実に気分爽快なものです。

 

  as.daily.life(アズ・デイリー・ライフ)旅行企画  檀上智子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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