和歌山城の見所・風雅を愛した紀州徳川第十代藩主・治宝公と同時代に活躍した華岡青洲・川合小梅

 歴代の紀州藩主の中で、和歌山において最も大きな存在感を示しているのが、第十代藩主の治宝(はるとみ)公。茶の湯や音楽、絵画などの芸術を愛したことから「数寄の殿様」とよばれました。『雪中牡丹図』は、治宝公が好んで描いたという、雪の重みに耐える寒牡丹の絵です。

こちらは、和歌山城内で元々大奥のあったエリアの近くの牡丹園の様子。2023年5月上旬には、これから見頃を迎えるというところでした。

 お城のパンフレットでは天守閣に関する説明の中で、1600年から築城を引き継いだ浅野家が、現在とほぼ同じ姿の天守閣を黒板張りで創設していましたが、治宝公により、1798年に白亜の天守閣となったと記述されています。

このように天守閣が漆喰の白壁になったのは、治宝公が19歳で藩主の座に就いてから11年後、30歳の頃のことでした。

 天守閣が多く築かれるようになったのは戦国時代からですが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のクラスの権力者であれば、築城の建材を全国から集めることができました。和歌山城の築城が始まった1585年には大阪城の天守閣は完成していますし、1619年に初代紀州徳川藩主となった徳川家康の十男である頼宣(よりのぶ)公が育った静岡県の駿府城は7階建ての白壁のお城だったことから、その権力の大きさがよく分かります。 

 地方のお城はその土地にある素材で賄っていたので、浅野家の築いた天守閣は当然のこととして黒板張り。石垣を積むのに使う石材は紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く、豊臣・桑山期から浅野期にかけては和歌山城南東にある天妃山や雑賀崎、友ヶ島、加太など近隣から採石されました。続く徳川期の石垣には一部で花崗斑岩が使われるようになり、正確な採石場所は不明ですが、新宮城では主たる石材として使用されています。

 このように、和歌山城の特徴である三期に渡りバトンをつないで行った城づくりは、今も良好な状態で残る石垣に明確に現れているわけですが、出土した瓦の家紋にもその足跡を感じることができます。

こちらの出土した瓦にみられる桔梗紋は、桑山家の家紋です。

こちらの鷹の羽の紋は浅野氏の家紋。

 

こちらは徳川家の葵の紋で、時代が新しいだけに出土品の状態も良いですね。

 初代藩主頼宣公は、生まれ育った駿府城のように白壁にしたいと望んだので、天守閣の改築は初代からの悲願だったとも言えますが、漆喰の白壁への改築には多額な費用も必要になります。藩の財政が整い、その願いが実現するまでおよそ180年を必要としました。その間、第5代藩主の吉宗公のとった質素倹約令で紀州藩は財政を立て直すことができ、後に続く藩主もしっかりと蓄えを増やし、第十代治宝公の時代に悲願が達成されたのです。

 治宝公は、第八代藩主・重倫(しげのり)の第二子です。重倫公は、足のサイズが30センチもある大柄だったことから和歌山では”大殿様”と呼ばれています。

 治宝公は在位中、学問を奨励し、8歳から30歳までの藩士の子弟の教育を義務化し明教館、医学館、松坂学校を開設しました。また、『紀伊続風土記』『紀伊国名所図絵』を編纂し、紀州文学史上にも大きな功績を残しています。

 治宝公が創設した医学館と関わりが深いのがあの、世界で初めて全身麻酔を使った乳がんの手術に成功した医師、華岡青洲です!

 那賀郡西山村(現、紀ノ川市)に在村医の子として生まれた華岡青洲は、42歳の頃、藩主に就任してから4年後当時23歳だった治宝公に認められ、藩士になりました。その2年後の1804年に、薬草を用いた麻酔薬『通仙散』を用いた乳がんの摘出手術に世界で初めて成功。藩主の健康管理に携わったり医学館で教壇に立ったりし、華岡流の外科は全国に広まりました。

 華岡青洲と同様に”和歌山の偉人”として紹介されている、江戸末期から明治にかけ和歌山の城下町に暮らしていた川合小梅は、青洲が乳がん摘出手術に成功したちょうど1804年生まれ。治宝公が文化豊かなまちづくりを進めていた、まさにその時に生きた女性です。小梅も治宝公のように絵を描くことが大変好きで、多くの絵を残しました。

 こちらは、2008年に和歌山市内の骨董店で見つかった後、和歌山市東長町の正住(しょうじゅう)寺に寄贈された立ち雛の絵。

毎年3月の雛祭りに『小梅日記を楽しむ会』(中村純子会長)が一般の人を対象として正住寺で学習会を開いており、参加するとこちらの絵を鑑賞することができます。

 このように、学問と芸術を奨励した治宝公と同時代に生きた人々は現代に大きな功績を残しました。

 治宝公自身は、特に表千家の茶道を極め、隠居後に居住した西浜御殿には、窯を築いて京都から楽吉左衛門、永楽善五郎等を招いて陶器を作らせました。西浜御殿があったのは、現在の県立和歌山工業高校の周辺です。

 和歌山県立博物館や和歌山市立博物館には徳川家ゆかりの品々が多く収蔵されています。小梅の絵に関しては、博物館に所蔵されているものの他にも、まだ個人が所有している絵も少なからずあるそう・・。

 このように、いまだ研究の余地が残されていて、古びていない歴史に触れることができるのも、和歌山市に暮らす面白さのひとつです。

         as.daily.life(アズ・デイリー・ライフ)旅行企画 檀上智子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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